≪Vol.1≫
 
日本における「展示会・見本市」の原型は、平野繁臣氏著(社)日本イベント産業振興協会発行の「JACEイベント講座1基礎 編」によれば1757年(宝暦7年)7月に平賀源内が師、田村 元雄と共に江戸湯島で開催した、日本国内で採集できる様々 な動植物や鉱物を集めて一般に公開した「本草会」というイベントがその起源のようである。
 
その後、日本は明治維新を機に殖産興業を目指して各国の国 際博へ積極的に参加、国内でも5回の内国勧業博覧会開催な ど国家の政策として産業技術の展示という手法によって近代 化を推進してきた。(同じく「JACEイベント講座1基礎編」より 抜粋)
 
しかし、今日我々が目にする「展示会・見本市」の原型と呼べ るのは、それよりもずーっと後の昭和の時代、第二次世界大 戦後の焼野原から復興した高度成長期まっただ中、東京では 1955年に、戦時中の飛行場跡地に新設された晴海国際見本市会場で、また大阪ではこの前年の1954年に朝潮橋で、 それぞれ開催されたアメリカ型の展示を中心とした見本市 「日本国際見本市」であろう。
 

現在も多くの展示会・見本市の出展区画の基準となっている 3m×3m(9㎡)1小間という最少単位もこの国際見本市の 当時の基準がルーツだという。
 
この東京国際見本市、まだまだ人々が欲しいものをろくろく 買えない時代に自家用車だ、冷蔵庫だ、洗濯機だと、夢のよう なモダンな生活を具体的なモノを展示してビジュアル化した ことにより、それは大盛況だったそうである。
 
この成功を機に翌1956年に通産省(当時)と東京都そして 大阪市(当時)はこの東京国際見本市を定期的に開催すべく、 その主催者団体である(社)東京都国際見本市協会を設立し た。これが我が国に於ける展示会・見本市産業の、そして、そ れと同時にディスプレイ業の隆盛の始まりであったようだ。
 

東京国際見本市
提供:見本市展示会通信

≪Vol.2≫
 
その後、我が国は東京オリンピック(1964年)と、昨年開催された上海万博以前では史上最高の観客動員数を誇った大阪万国博覧会(1970年)とビックイベントを連催し、とりわけ大阪万博に於いて、ディスプレイ業者は空前の特需を経験したようである。
しかし、この2 つのビックイベントよりも10年近く以前に開催されたビックイベントが国際見本市という展示会・見本市イベントであったことがディスプレイ産業に好機を与えたと言えるのではないだろうか?
 
今でこそ広告業界に於いて、イベントがマスメディアと肩を並べる10万人規模を超えるプロモーション効果を担えるメディアであることが認知され、多くのイベントの扱いは広告代理店がその受け皿となっている。
 
しかし、当時はプロモーション手法の1要素であるセールスプロモーション手法のひとつとしてしか認識されておらず、広告代理店で扱うためには、専門性や収益性に難があったことに加え、当時の出展企業各社に於いても、初めての展示会・見本市への出展に際し、その業務をどの産業へ委託すれば良いのか紆余曲折があったことが、後にディスプレイ産業に分類される舞台美術(大道具)会社、皇室の行啓先などの飾りつけを担っていた装飾会社、そしてアパレル系の貸し物会社などがそのニッチの部分の恰好の担い手になっていく一助となっていったものと推測される。
 
その後も(社)東京都国際見本市協会は日本国際見本市の他に「グッドリビングショー(GL)」、「日本国際工作機械見本市(JIMTOF)」を開催し、加えて各種業界団体が業界活性化や親睦のために主催するもの、そして各種新聞社や出版社などが事業として主催するものなど展示会・見本市イベントは商取引の重要な場として益々盛んに開催された。「ビジネスショー」、「東京モーターショー」、そして「ギフトショー」などまだまだ数え上げれば切りがない。

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その隆盛に伴い、展示会場も何かと施設的には不十分だった晴海国際見本市会場が、その役目を終え、幕張メッセ、東京ビックサイト、そして東京国際フォーラムなど、また地方都市に於いてもどんどん充実したコンベンション施設へと進化していったのである。

≪Vol.3≫
 
晴海が日本の最も充実した展示会場だった頃、我々ディスプレイ業者は、ゲートや登録所や看板などの必要施設を屋外に設営する場合が多く、夜を徹してこの会場特有の台風規模の強風対策と雨じまいに駆けずり回り、体力の限界に挑戦していた。当時を考えると今の施設は、寒暖の苦こそ当時とそんなに変わりはないが、それでも普通に人間の仕事場と思えるのである。
 
また、敢えてさる方面からのお叱りを覚悟で述べさせていただくと、バブル経済まではディスプレイ業者に発注される予算は、どこか、発注企業が上げた利益の税金対策の一部であったような感があり、作るものは他社よりも目立って、豪華で、美しければそれで良い、という一面があったことを否めない。
 
我々ディスプレイ業者が、発注企業が出す老廃物を処理するバクテリアと揶揄された所以であろう。
 
現在ではパネル1枚、棚1段でもその存在意義をきちんと説明できなければ見積書から削除される運命にあるばかりか、受注さえ危うくなる。今のこの姿こそが正当なのだ。
 
特需ありバブルあり、といった蜜月を経て、バブル崩壊後は、極端に縮小したマーケットを奪い合う熾烈な過当競争というしっぺ返しを食らい、ようやく悟らされた境地というべきか。

さて、今、アジアの展示会・見本市シーンはその軸足を中国へ移してしまった感が否めない。
 
今我々はこの現実を目の当たりにして何処へ向かわなければならないのだろうか?中国進出なのか?それとも第三国なのか?はたまた、あくまでも国内に拘るのか?その歴史に悟らされた境地が強みとして作用するビジネスモデルとは如何なるものか?

戦後から現在までのこのディスプレイ業界のあゆみは、今我々にどのような示唆を与えてくれているのだろうか?

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